でも、コロナがあったり、
去年は娘のことがあったりして、
そのたびに「今じゃない理由」があった。
日本は、安全で、便利で、快適だ。
正直、このままでも困ることは何もない。
「どうしても行かなくてはならない理由が、ない。」
「だからこそ、それを選択してみよう。」
ふと、そう思った。
そんな理由だから夢が叶ったとか、
どこかを誰かを目指していたわけじゃない。
憧れる人もいないし、
尊敬してやまない師匠もいない。
フィリピンでなければならない理由もない。
強いて言うならご縁があったということくらい。
そんな大した理由ではないからこそ──
これからも淡々と過ごす日々の暮らしを、
自分の手で選びなおしてみたくなった。
あわい(間)という言葉を使っていて
ふと、思い出したメッセージがある。
『3つの間』を大切にしなさいと、
教えてくれた人がいる。
『時間』、『空間』、『仲間』の3つ。
時間も場所も人も自分で選べること。
これが出来ると幸せで自由だと、
きっとそういうことだと認識してる。
ただ僕は──
もう一つ“手間”という『間』を加えたい。
『手間』って、不思議な言葉だと思う。
手と手の間──と書く。
その間にあるのは、たぶん、『心』だろう。
誰かのために手間をかけるというのは、
心を尽くすということだと思う。
僕も、これまでたくさん手間をかけてきた。
子どもたちのこと、
ビジネスパートナーのこと、
クライアントたちのこと。
相手のことを想って、
何かを整える時間には、
たしかに自分なりの愛情があった。
でも、ふと立ち止まって考えた。
自分には、ちゃんと手間をかけてきただろうか?
誰かのことはよくわかるのに、
自分の気持ちがよくわからない。
そんな瞬間が増えていった。
「自分を丁寧に扱う」
そんな当たり前のことが、
いつの間にか後回しになっていた気がする。
一番側にいる自分を一番最後に。
最近は、何でも時短できる。
AIを使えば、あっという間に文章も整う。
便利で、効率的で、すごく助かる。
でも──
手間を省くことに慣れすぎると、
“心をかける感覚”まで
一緒に手放してしまうような気がした。
子育ても、仕事も、料理もきっと同じだ。
どうせやれることしか、やれない。
だからこそ、やれることは
心を込めて、精一杯やる。
そしてやったら、手放す。
それをどう受け取るかは、もう相手の問題だから。
もちろん、相手の感性も大事だと思う。
でも──
相手や周りに褒められることや、
報われることだけを期待しなくてもいい。
今、この瞬間に心を込められていれば、
それだけで十分じゃないか。
自分のために、自分の時間を使うこと。
自分に手間をかけること。
それは、特別なことじゃなくて、
これから大切にしていきたい
“暮らしの一部”だと思う。
──あなたは今、
誰のために手間をかけていますか?
そして、それと同じくらい、
いや、それ以上に
あなた自身にも
たくさん手間をかけてほしい。
僕も、
「心の赴くままに。自由に、軽やかに。」
そんな生き方を取り戻すための旅を、
少しずつ綴っている。
今日も一日、おつかれさま。
あなた自身に手間をかけてあげられたなら、
きっと、それだけでじゅうぶん。
── Atsushi
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