【 4|記憶の中の手間】

小さい頃、祖父母の家に行くと、

おばあが縁側で「ぜんまい」を干していた。

新聞紙を敷いて、その上に丁寧に並べて、

夕方になると、ひとつひとつ向きを変える。

特別な言葉はなかったけれど、

その背中には、何か伝わってくるものがあった。

うちの親父は、僕が小さい頃に亡くなった。

おふくろは、朝から晩まで働き詰めだった。

おばあは、そんな僕らの暮らしに、

そっと手間を注ぎ続けてくれた。

孫が熱を出したと聞けば、

大雪の日でも自転車で

駆けつけてくれるような人だった。

自分の人生は、決して楽じゃなかったはずなのに、

それを誰かのせいにすることもなく、

いつも嬉しそうに、僕たち孫を褒めてくれた。

そんなおばあが作ってくれた、

干したぜんまいと、油あげと、しらたきの炒め物。

たぶん、使っていたのは市販のサラダ油。

特別な調味料があったわけでもない。

でもその料理は、いつも大鍋で作るのに、

僕ひとりで平らげてしまうほど、

何よりのごちそうで、本当に美味しかった。

少し甘じょっぱくて、

ふわっと自然の香りがして、

口の中に“暮らし”の匂いが広がった。

「うんめけ?(美味しいかい?)」

「いっぺけ(いっぱい食べな)」

いつもそう言ってくれるおばあの口癖。

あの香りと味は、今でもふと思い出す。

なつかしさというより、

その一皿に宿っていたのは、

きっと「心」だった。

言葉じゃなく、感覚で残る記憶。

「何かをしてくれた」ことよりも、

「何かをし続けていた」背中のほうが、

ずっと深く、僕の心に染みていた。

料理も、掃除も、草取りも──

おばあにとっては全部が“暮らしそのもの”だった。

そこにはいつも、

祈るような丁寧さがあった。

でも、手間って、

愛情そのものではないと思う。

時間をかけることが、

必ずしも手間ではないように。

“心がここに在る”ということ。

どんなに忙しくても、

その瞬間だけは、

目の前のものを丁寧に扱う。

それが、手作りとか、出来合いのものとか、

そういうことじゃない。

子どもはきっと──

その一瞬の”手間”を

親や祖父母の“心”を感じながら食べている。

僕は、それを身をもって知っている。

そして、これを読んでくれているあなたも、

きっと知っているはず。

あのレシピ、訊いておけばよかったな。

もう二度と食べることはできない。

もちろん特別な作り方をしてなんていないだろう。

でも、あの味があったから、

僕は今でも「どう生きたいか」を思い出せる。

僕は、きっと“ばあちゃん子”だった。

忙しかったおふくろに代わって、

静かに、そばにいてくれた人。

言葉より、手間。

教えより、暮らしの背中。

おばあの存在が、

今も僕の輪郭をやさしく縁取ってくれている。

だから僕も──

誰かの輪郭をやさしく縁取るような

そんな人でありたいと思う。

──あなたの暮らしの中には、

どんな“記憶の手間”がありますか?

そして、どんな香りや味が、

あなたの原点を思い出させてくれますか?

生き方の見本になるものが、

きっとあなたの記憶のどこかにもある。

僕は、あの日、すでに受け取っていたんだね。

今日も一日、おつかれさま。

ふとした香りや日常の記憶が、

あなたの心をやわらかく包んでくれますように。

── Atsushi

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

コメント

コメントする

目次